適応障害の悪化

私は大学生活最初の山場を終え、私は春休みを実家で思い思いに満喫していました。好きな時に起きて、好きな時に寝る・・・しかもこれが2か月。まるで夢のようでした。当時、免許を取り立てだった友人の運転でみんなとドライブにも行ったのが懐かしいです。当時を振り返ると、「2年も頑張れるかもしれない。」そう思っていました、、、この時は

 

 しかし、それは幻想であり、寧ろこれまでの人生の価値観を思い切り破壊する苦難の連続でしかありませんでした。

 

 1年の講義は座学が9割だったためすべて単位習得でき、何とか切り抜けられました。

 

 2年の講義である実験は、私にとっては本当に過酷極まりない試練でした。特につらかったのは以下の4点です。

 

1.グループ学習だが、会話に入れない

2. 大学教授が接するのが一苦労

  1. レポートをいちいち先生に見せにいくのもハードルが高く、苦痛。
  2. わからないことがあっても質問できない。

 

これに加えて他の講義の勉強もしなければならず、次第に追い詰められました。レポートの作成に必要なエクセルの使い方がわからず、でも聞きにも行けず、毎日パソコンの前に座ったまま。ネットの誘惑には抗っては負け、抗っては負けをここまでかというくらい何度も繰り返しました。

しかし結局進むわけもなく、毎日徹夜、講義も遅刻、そして、先生にも聞きに行けない・・・。打開策が見つからず、私はもうこの時点で終わったと思いました。

 

締め切り間近になってようやく火事馬の馬鹿力によって、研究室に行ってTA(授業のサポートをする大学院生の先輩)から教えてもらうことができました。ここまでやっても結局教授からは時期に関係なく突っ返されるという仕打ちをなんでも受け、心身的に限界でした。この時から、自分の違和感に気づいているべきでした。「自分はなんてダメなんだろう・・・。」こう思う必要なんてなかったのです。

私の学生生活最初に感じた違和感(適応障害の兆候)

前回からさかのぼってしまいますが、投稿し忘れてしまったためここで書かせてください。大学1年の前期まではGWや夏休みに遊び、講義のある期間は地元の友人たちと近況の報告もしあいながら何とか切り抜けることができました。

 しかし、私が最初の危機感を感じ始めたのは大学1年後期のとある授業の時でした。その教科は学科の専門科目だったのですが、その担当の教授が私はどうも苦手で、講義中は既に委縮していました。

 授業が進むにつれて私は次々とわからないことが増え、次第に沼にはまり込んでいくような感覚でした。しかし、私は性格のせいで周りに聞くこともできません。

 「次の授業は何とか頑張ろう!」「次こそ頑張ろう!」「次は絶対に聞く!」私はこのセリフを心の中で何回繰り返したでしょうか。

結果はというと、当然できません。今思えば、根性で解決すれば人生で困ることはないはずです。

私は次第にその授業が億劫になり、教室にいるだけでも苦痛になっていきました。

やがて私は見切り発車でしか進めることができなくなっていき、ついに課題を提出するときがやってきました。

 当然、あまりにもひどいできに教授の怒りは大爆発。

 

 私の頭上から、黒焦げになるレベルの雷が一気に落ちてきました。

 

 教授はあきれながらも、その後最低限のことは教えてくれました。

 

そんなこんなで私の波乱の大学生活は始まったわけですが、今思えばこの時から適応障害の症状は顕著に表れていたのかもしれません。

 

 

私が大学2年にして一気に断崖絶壁まで追い詰められた話

て、ここ数か月の休養のおかげで、私はすこぶる快調です。Twitterでは、皆さんの頑張りで僕も励まされています。ありがとうございます。

 

 話を本題に戻して、大学1年の時から既に兆候も見え始めていましたが、何とか乗り越えることができました。

 

 問題は、大学2年生の時です。

前期の最初の日、私を含めた新2年生全員が集まる機会があり、2年生からお世話になる先生方の中に、異常に嫌味っぽいとある教授がいました。

 「最近の若いヤツは・・・」と偉そうに言う、まさに典型的なあの嫌な感じです。この教授は講義中にも学生の悪口ばかりを言い、今思えば、正直学ぶものが何もありませんでした。ある時には、「そんなんじゃ社会じゃ・・・」と、こりゃまた典型的な嫌味ばかり言ってきます。そんな人の話を真剣に聞きたいなんて思うはずがありません。この教授の講義に限って、必修なのです。本当にストレスのたまる日々でした。

 あの頃私は19歳です。まだ社会のことを良く知らず、教授に限らずいろんな大人の言うことがすべてのように感じてしまいます。社会人経験もまともにない大学の教授が、どうして世の中をなんでも知ったような振る舞いを見せられるのか疑問です。

 今では教授、先輩が偉そうにしても、気にすることはありません。彼らは経験が長いわけではなく、1年分の経験を数年、もしくは数十年分繰り返しているだけです。これは、学部、院と続いて在籍するとよくわかります。

 

 私が今思い出しても本当に地獄だったのは、先ほどの講義もそうでしたが、2年生から学科の専門科目として始まった、実験の授業でした。あの授業は本当に憂鬱で、自分からみるみる崖に飛び込もうとしているような、そんな感覚に襲われました。

 

 実験は全部で5種類ありました。この実験の中には、まさに先ほど話した教授が担当のものもありました。しかし、ここで私はいきなり大きなしくじりをしてしまい、精神がどん底に突き落とされるような目に遭うことになったのでした。

 

 

孤独な大学生活

 

 入学してすぐ、当たり前ですが新入生全員で集まると当然ですが知り合いはほとんどいません。入学式を経て、いざ指定された教室に入ればほぼ初対面で、この時点で私はこの大学じゃ無理だとこの時は完全に思っていました。そして、私はこの時点で「もう大学は大卒の単位を得るための場所として割り切ろう」と完全に割り切っていました。

 

 前期の授業が始めるほんの少し前、新入生全員で親睦を深めるためのいわばオリエンテーション目的の合宿に仕方なく参加しました。これは自戒なのですが、私はバスで隣の人が一生懸命仲良くしようと話しかけていたにも関わらず、ほとんど適当に返事してごまかすという訳の分からない、今考えれば本当に失礼なことをしていました。

 この日の夜、同じ部屋だったメンバーが夜に私に気を使ってババ抜きをみんなでしました。しかし、私は今後一切、この部屋のメンバーとは今後ほとんど会話という会話をしませんでした。

 

そして前期の授業が始めると、さっそく授業の課題が出始め、私は新生活になれるのと課題の淘汰で忙しくなっていきました。そしてここから大学の勉強とYouTubeの往復という状態を延々と続ける生活が始まったのです。

 

私がハマってしまった最初の罠

私は幼いころからずっとコミュ障であり、かつ人見知りです。地元から離れた今の大学(大学院)に進学しようと決めた時も、その性格が直っていたわけではありませんでした。今でも、大勢の輪にはいることには抵抗があります。

 

 それもあって高校のクラスメートからは進学後大丈夫なのかと度々心配されていました。しかし困ったことに人間は感情に容易く影響を受けやすい生き物です。完全にバイアス(思い込み、偏見の総称)にハマってしまった私は、「あの大学こそが自分にふさわしい大学なんだ!」といった完全にバカな考えに至ってしまったのです。バイアスという言葉そのものを当時知らなかった私は、そんな考えを改めようと考えるわけがありませんでした。

 

 私がハマったバイアスは、代表的なものは確証バイアスと言われるものです。このバイアスは自分が良い、正しいと思ったものを肯定する情報だけを信じ、逆にそれらの情報を否定するような都合の悪い情報を無視するといったものです。私は大学のいいところだけを目にし、自分の性格のことなど一切考えていませんでした。さらにバイアスからさらに連鎖してバイアスが発生してしまう出来事がありました。その大学をオープンキャンパスで実際に見に行ったことで一時的に気分が高揚し、また新たなバイアスにハマってしまったのです。それが「プロジェクションバイアス」と呼ばれるものです。このバイアスは、その時の感情を起点にして未来を勝手に想像してしまうことです。志望校に受かったときや、第一志望の会社から採用通知をもらった時など、多くの皆さんがこのバイアスは身に覚えがあるのではないかと思います。

 

 特に確証バイアスや一時的な感情は、多くの人が意思決定の際に陥ってしまう罠だとされており、これらを知らないと意思決定で失敗を何度も繰り返しやすくなります。

 

 もう一つ考えられるのは、認知容易性というものです。これは、自分にとって馴染みにあるもの、見やすいもの、目が付きやすい情報から目が行ってしまうものです。私の場合は、大学が昔から馴染みのある親戚のある地域であり、なおかつ理系という2つの偶然が重なって起こったものだと思います。

 

 これらのバイアスによって私は進路選びをしくじり、一時期本当に地獄ともいえるような大学生活を送ることになったのです。

 

参考文献

メンタリストDaiGo、「後悔しない超選択術」、西東社

ダニエル・カーネマン、訳 村井章子、解説 友野典男「ファスト&スロー あなたの意思はどのように決めるか?[上]」早川書房

チップ・ハース&ダン・ハース 訳 千葉敏生「決定力! 正しく選択するための4つのステップ」早川書房

 

 

挫折の始まり

 とりあえず、私の人生の詳細についてはまた後日として、私が適応障害と認定されるまでの日々をいくつかに分けて書きたいと思います。

 高校3年生の時、私や周りのクラスメートは自分の進路を決めなければなりませんでした。進学校ということもあり、私も含めたクラスの全員が進学することを決めていました。私は、地元から離れた親戚の家の近くにあるとある大学にあこがれていました。

 

私は、自分の学力もあって東大、京大、早稲田、慶応、上智などの難関大にあまり関心がありませんでした。そんなとき親に言われて見つけたのが今の大学であり、後に私はここでよくも悪くも自分の人生を変えるきっかけをつかむことになったのです。

 

ここから、まさか自分が地獄のような日々になるとは全く想像がつきませんでした。

 

初めまして。

こんにちは、691です。

 

この度、ブログを開設してみました。

 

私のこれまでの経験から学んだことをいろいろ書こうと思います。

 

文章うまく書けるかわかりませんがよろしくお願いします。

 

691